会議におけるおじさんたちの◎◎ちゃん呼びについて
おじさんたちってどうしてあだ名で呼びたがるんだろう。
— たまこ (@tamako99) 2018年11月8日
谷崎→「ザキさん」
中野→「なかちゃん」
みたいなやつ。親しみ…なの…?
仲が良い人同士、あだ名つけて呼び合うのは大人でも子供でもよくあることです。会社にいるおじさん同士でもよくありますよね。飲み会の席などであだ名で呼び合ってるのを見ていると「仲いいんだな~」とほほえましく見ていられるのですが、会議の席で呼び合ってるのを見ると「何馴れ合ってんだよ」と殺伐とした気持ちになります(当社比)
日ごろ、人の態度やら口の利き方に厳しいのは何を隠そうおじさんたち。そのおじさんたちがTPOにふさわしくないと思われる会議の場などであだ名呼びしてるのはどうにもムズがゆい。なんで今、その「親密さ」をここで出してくるのか。仲が良ければOKしてくれるというのか。それは「顔を見せたら商品買ってくれる」と思ってる勘違い営業さんの思考ではないのか。おじさんという、それなりの立場と責任を背負った人が、そんな勘違い営業みたいなところをみせないでくれ!と思うんですね。
ちなみにここでいう「おじさんたち」は私より年上もしくは責任ある役職についている人たちを指しています。そして同年代の人や若い人にこの現象はあまりみられないというのも特徴。ある一定の年齢を越えた人たち、もしくはある一定の役職以上の人たちにおいてみられる言動だったりします(当社調べ)
つかさ、それってWスタンダードじゃないの?私が社長の谷崎さん(仮)を「ザキさん、それは違うと思います!」とか会議で言ったら怒りますよね?なんで部長の中野さん(仮)が「ザキさん、それは違うんじゃない?」が通るのか。部長になったら許されるものなのか、これは。
要は「人によって態度を変える」ってことのひとつの側面なんだろう。「親密さ」の演出は立場によっては精神的な圧迫にもなる。「社長と部長は仲が良いんだな。じゃあ、こんな意見を部長にいうのは慎もう」みたいなことを感じる人が周囲にいないとも限らない。そこで生じる忖度は果たして健全な会議運営に建設的な影響を与えるのか(否、与えない)
とか考えてたら、これは病気だって。
自分の元気は自分で(自戒を込めて)
またしてもマーちゃんにやられた。
確かに元気って人からもらうもの、じゃないよなぁ。
お中元じゃない、って発想もなかったよ(笑)
またしてもマーちゃんにしてやられた。キラキラ光りまくってる。
こんなパワフルなおばあちゃんはそうそういないので、この人は本当に”選ばれた一握りの人間”なんだとは思うのだけど、でも「やられた」という気持ちになるのは事実。マーちゃんの半分くらいしか生きてないので、まだまだヨチヨチだからしょうがないけどさ!
しかしこの特集に出てくるおばあちゃんたちはどの人もキラキラしてる。パワフルで、まっすぐで、自分の好きなことに正直だ。それに比べて私は…とか言っても意味がないので、目の前にあることや好きなことにきちんと向き合って行こう。
自分の機嫌は自分で取る。
自分の元気は自分で面倒みる。
さて、明日もがんばるぞ。
死んだら負け、なわけがない
私からもひとこといいたい。
昔から「自殺は負け」の意味がわからなかった。死にたいのは「今」の「その人」なんだよ。そもそも人生なんて他人と比べることでもないし、優劣つけることでもないだろうよ。
— たまこ (@tamako99) 2018年10月18日
自殺したら負けとか自殺する奴は弱いとか言うのはもうやめませんか。 - 読書生活 https://t.co/68J45qMteB
私も何度か「死にたい」と思ったことがあります。いじめが原因でそう思っていたとき、家族との関係がうまく行かなかったとき、そしてパワハラにあっていたときです。それぞれ10代、20代、30代で経験していますが、自分で一番危なかったと思うのは20代後半のとき。過労で自律神経失調症と診断された頃でした。
通常業務をこなしつつ、帰宅後に時差のある相手と電話で連日交渉。そして翌日は通常通り出社。ほぼ毎日のように会食もありました。しかしまだまだ仕事が降ってきます。そのうち、関知しなくていいはずの案件にいつのまにか戦力としてカウントされていることがわかり、ここで完全にオーバーヒート。何も考えられなくなりました。
そんなある日、帰宅の電車を待ってるときに「ここで一歩踏み出したらこの状態から抜け出せるのかな」と思い、足を踏み出したところで我に返りました。
結局、退職後にあれがパワハラだったと認識するんですが、当時はパワハラを受けているという自覚はありませんでした。追い込まれて目の前がキューっと狭くなる。選択する余地がなくなる。自分の敵がみえない。私はこんなにやりがいのある仕事をしているのに、なんでこんなにつらいのか、それがわからなかった。理解できなかった。
結局、どうにもならない、体調も悪すぎる、このままでは社会から脱落してしまう、という危機感に加え、フラッと線路に飛び込もうとしたことがきっかけとなり退職を決意しました。でも退職の意思を伝えるのが怖かった。その仕事がすごく好きだったし、社長のことも同僚も、お仕事でつながりのある方々もすごく尊敬していたので、皆さんを失望させてしまうことが本当に怖かった。
しかしそうやって辛い場所と時間から逃れ、紆余曲折あり今こうしてタイで生活しているわけですが、私は生きててよかったと思ってるし、自分の人生を自分でコントロールしていることにとても満足しています。あんなに大変だったのは私が「弱いから」だったとは思わないし、もっとうまい逃げ方はあったかもしれないけれど、そのときはそうすることしかできなかった。必死に目の前のことを頑張っていたら追い詰められてしまっただけ。それを「負け」と言い切ってしまっていいのでしょうか。
【死んだら負け】…僕が高次脳機能障害盛んなりし頃にマジ死のうかと本気で考えたのは、凄く単純に「死んだほうがらくなぐらい辛いから」だった。死んだら負けとか言われた瞬間、そのぐらい苦しい状態を全否定されたことになるって分かって欲しい。残酷とかの言葉じゃ言い表せない
— 鈴木大介 (@Dyskens) 2018年10月17日
あのときに失くしたものやつらかったこと、そして一生懸命だった自分を全否定されたくない。友達、恋人、心と身体の健康、時間、体力、などなど失くしたものは数知れません。でもそのことを否定されたくないし、私もしたくない。あのとき「楽になりたい」と線路に向かった自分の気持ちは誰にもわからない。その後、必死にしがみついて自分の人生を取り戻したことも誰にも否定されたくない。
だから誰かに勝手に勝ち負けにしてほしくないです。
アラフィフをどう迎えよう
最近はどんな50代にするのか、どういう50歳になりたいか、というのをよく考えているのですが、これ読んで「ウォーーーー!!!」と叫びたくなってしまいました。
50歳目前で離婚。しかもほかの記事を読むと、旦那さんは彼女の資産もごっそり根こそぎ持って行って、無一文に近い形で離婚してるんですよ。(その後、弁護士を入れて交渉したようですが、どこまで取り返したのかは現時点では不明)
振り返ってみると、私は30代半ばで出産し、その後1年ほどで息子の父親と別居したのですが、その時に持っていたお金は5万バーツ弱。日本円にして15万円ほどでした。無一文とは言わないけど、親子二人で日本に帰るのにギリギリの金額しか持っていなかった。
老後よりもなによりも目先の500円。
これが当時の心持ちだった。
幸い、私は企業にお勤めしていて、月々のお給料があったのでなんとかかんとかやりくりして今までやってこれた。今でもそんなに蓄えはないけども、子供を学校に行かせるだけのことはできているので、まぁ、ヨシとしよう。なによりも私はまだ45歳。定年(55歳)まで10年あるから、それまで給料もらいながら、定年後も働くことをかんがえて今から準備すればいい。
ですが、この記事を読んで、あれが50歳目前のことだったらどうしようか、と考えてしまいました。子供がある程度大きくなっていたとしても、それはそれで目の前に迫る老後や介護への不安がのしかかってくるでしょう。この方はフリーランスのライターだったとはいえ、ご本人も書いているとおりそれまでが裕福な生活だったのでは、生活レベルを落とすのも大変だったはず。心の支えになってくれる人がいるというのはすごくよかった、と思うけども、お子さんたちが受け入れてくれるかどうかも不安だったでしょう。
しかし、なんだかんだ言っても仕事があるのは幸いだと思う。どんな仕事でもいい、継続してお金を稼いで、「自分のために生きる」という選択肢を自分の中においておくのはすごく大事だと思う。
では、私は50代をどう迎えるのか。
少なくとも「離婚」はないので、息子を学校にやることが最重要課題なわけですが、まず5年はそれを優先して頑張らないとな、と。その次の5年はどうしようかな、自分の定年準備に向けようかな。そのための資格試験やらなにやらは、次の5年だな、とか色々と考えてしまってます。
こんなモヤモヤを続けていると、またしてもミッドライフクライシスAGAINでトイレで泣いたりしそうな気がしますが、友人が「そんな難しく考えなくてもいいんじゃない?」と言ってくれたのを噛み締めながら、来る50代へ思いをはせることとします。
やっぱりどこかでロールモデルが欲しいと思ってるんだよなー。
働くママ、シンママ、そして自分の人生を握りしめるワーママの。
年上の友達からのアドバイスやFB投稿などに、色々と考えさせられる日々です。
がんばろう。うん。
恋バナマウンティング
親しく付き合っていた女性の話なんですけども。
その女性には彼氏がいて。でもあまりお付き合いしてることを公にしたくないということだった。でも恋する乙女は恋バナがしたい。誰かに彼氏の話を聞いてほしい。どんなに素敵な人か理解してほしい。なので、彼女と会うときはよく彼氏の話をしていた。ひっそりとしたお付き合いをしているのは知っていたので、私のことは口の堅い友人と信頼して話してくれてるんだろうな~と思いながら、ふんふんと話を聞いたり、時には相談にのったりしていた。
ある日、私が「実はちょっと気になってる人がいてね」という話をしたとき、彼女の顔色がサッと変わった。それこそ一瞬目を見開いてその表情が止まった。その時は「唐突すぎたかな」と思っていたのだけど、その日を境になんとなく距離を置かれるようになり、しばらくして気がついた。
あれは恋バナマウンティングだったんだ。
彼女にとって私は恋愛市場に参戦してる現役ファイターではなく、転がっているその辺の石だったのだ。彼女はそんな私を前にして、自分は市場においてバリバリ現役なのだと、市場価値を確認したかっただけだったのだ。だから私が市場に参入してる側の人間だと知って驚き、そっと距離をおいたのだ。だってただの石ころと同じ土俵にいるなんて彼女は許せなかったから。
のちのち、共通の友人から彼女は恋愛ハンターだと聞いて納得した。
確かに私は恋愛ファイターではなかった。恋愛に対してアグレッシブな人間でもなかった。でも、ひとりの人間として、ほかの人と同じように誰かを慕うことだってある。しかし彼女の価値観では「恋愛市場で高値の付く人間かどうか」「恋愛市場の参入者かどうか」は非常に重要だったのだ。彼氏の存在は彼女の価値を高めていて、彼氏のいない私は吐き出す熱いゲロを垂れ流せる存在だったのだ。
それ以来、恋バナをする人が苦手だ。
お題 『わたしの自立』
初めて一人暮らしをしたのは留学したとき。
それは「自立」というにはほどとおく、”自由”はさんざん謳歌したものの、それは「海外」という物理的な距離がもたらしたもので、金銭的には親のスネカジリで、とてもじゃないけど「自立」とは程遠かった。しかし一人で生活をやりくりし、親とも適度な距離感でいい関係を保てる、という自信を持つには十分な経験だった。
日本に戻ってきて数年が経ち、自分のお給料で暮らしていけるだろうという自信と目処がついたときにはすでに30歳目前だった。学生の時間が長く、その後の社会人生活も不規則極まりない&低収入だったため、実際に家を出られる自信が持てるまで時間がかかった。
親に相談すると引き止められるのはわかっていたので、内緒で不動産屋に物件紹介を依頼し、いくつか内見したい物件がでてきた時点で、「家を出る」「そのために保証人になってほしい」という話を親にした。
母は泣いた。
過保護な親で、30になろうという娘を「うちの子」と呼ぶ人だったので(これは今でも変わらない)、泣かれることは想定内だった。結局、父が味方になってくれて、母を説得してくれた。
それ以来、自分の城を築いて暮らしている。
いまでは息子を学校に行かせて、猫2匹と一緒に不自由ない暮らしだ。
ただ、精神的には自立できたか自信はない。今も母は私に帰国して、近くに住んでほしいようだ。大好きな孫の近くにいたい、という母の気持ちが時々ポロッと漏れてくるたびに、私は折れそうになる。
そのたびに父があのとき背中を押してくれたことを思い出す。タイに移住を決めたときにも快く送り出してくれたことを思うと、ああやって親元を離れていく子供の背中を押すのは本当はどんな気持ちだっただろうか、と思い、ポキっと折れそうになるのを押し留める。
私にとって自立とは、父のように子供の背中を押してあげられるときにやってくるものなのかもしれない、と思う。