また、明日。

マイペースにやってます。

井伏鱒二 『駅前旅館』

井伏鱒二といえば、『山椒魚』もしくは『黒い雨』。受験勉強の折にも、中学校だか高校の授業だかでも取り上げられる昭和の文豪です。

 

駅前旅館(新潮文庫)

駅前旅館(新潮文庫)

 
 
 

 

これまで何度か井伏作品に触れてきたにも関わらず、私は全く興味を持てませんでした。その理由は様々ですが、一言で言うとどうもピンとこなかった。

 

ところが、井伏鱒二という人は太宰治が生前非常に仲良く付き合っていた、と聞いてがぜん興味がわいてきました。私は川端康成のことを悪くいう太宰のことも、彼が書いた芥川賞クレクレ手紙のことも、身勝手な心中という最期も、私小説のような作品もこれっぽっちも好きではないのですが(好きな人にはごめんなさい)、そんな太宰が私生活において頼りにし、遺書にまで名前を書いたのが井伏鱒二だった、と聞いたら、これはもうただ者じゃなだろう、と。あれだけ自堕落で放埓な太宰(私の中ではこういうイメージなんです)と長く、そして密に付き合ったという人からは、それまで教えられてきた「井伏鱒二反戦作家」というイメージは吹っ飛び、ひとりの面白そうなおじさん、に変わりました。

 

早速、いくつかの作品について調べ、その中でも『集金旅行』とこちらの作品のどちらにしようか悩みましたが、まずは下世話過ぎないこちらにしようと思ったんです。なんとなく、軽妙な感じがしたので。

 

で、読了した感想として身もふたもないことを言いますが、

 

 

なにもかもがだらしない。。。

 

                                                                                                                                                                                              

当時の「駅前旅館の番頭さん」の社会的立場を私はよく知りません。昔の旅館というのは流れ者やワケアリのスタッフが多く、あまり社会的によい位置づけではないことは、他の作家の作品を読んでいてもわかります。そして、団体旅行のお世話係といえば薬屋や米問屋の番頭とは求められる質が異なるのはわかります。しかしその旅館の番頭という職業の社会的立場を「立派とは言えない」ものにしているのは主人公その人じゃないでしょうか。長年番頭として勤めていてこのありさまなのか。果たしてプロの番頭とはなんなのか。子供のころから女中部屋で寝起きして、旅館の仕事を肌で知っていて、「江ノ島の呼び込み」という番頭として最も過酷な修行をしておいてこれか。。。おいおい、しっかりしろよ…と思わず声が出る始末。

 

女にだらしないと口ではいいながら、自分に好意を寄せてくれている女性にははっきりした態度をとらず、何があってものらりくらり。さすがにだらしないにもほどがある。手に手を取って駆け落ちしろとはいわないが、於菊にはしっかりと年長者らしい一言でもかけてやれよ…。辰巳屋の女将にも中途半端に気を持たせるようなことするなよ…。イライライライラッ

 

でも、意外と男性ってこんな感じなのかもしれない。どこかで「自分なんて」と思ったまま大人になり、年を重ねた男性ってこういう感じなのかもしれない。新しい時代がやってきて、その時流に乗り切れず、大型旅館の番頭という仕事「しか」できない身の上は、ある種の劣等感を植え付けられるものなのでしょう。緩いつながりとコネクション、心付けが次の仕事へとつながる前時代的価値観。

 

聞き書きという体裁がそのゆるさ、落ち着きの無さをまた増幅していて、「だらしない」印象を固定していくのですが、悪い人じゃないんだよね…。それはわかるんだけども、時代が違うといえばそれまでなんだけども…。男性は好きなんですかね、こういうお話。

 

もう少し井伏鱒二という作家とその作品について、深く知りたくなったのは間違いありません。今度は『集金旅行』を読んでみようと思っています。

  

集金旅行(新潮文庫)

集金旅行(新潮文庫)