見た。選択的非婚女性の子育て話だと思ってみたんだけどちょっと違った。ざっくり言ってしまえば「形にこだわりすぎるシンママの話」だろう。
結婚という形、家族の在り方に疑問を持つのは私も同じだ。子育ても「家庭」だけに背負わせる必要はない、とも思っているし、実際に近所の人や友人たちに助けてもらっていて非常に助かっている。誰かの手だけでなく「目」もあるほうが子育てはいい、というのは経験からくる持論でもある。
あっちゃんも共同子育てに賛同してくれる友達を長屋に集めて(巻き込んで)子育てしていて、それはすごく楽しそうだ。ただ、それは合意を得て共同体を構成したうえでの子育てなので、私とは少し違う。いつか、この共同体から人が欠けていくことがあったり、仲たがいしたりしたらどうなるんだろうか、と心配になった。「そんなことはない」と思うのかもしれないけれど、人の心は移ろう。それはあっちゃん自身がそうであるように。
人の気持ちは変わる。
だったら、思想だって信念だって変わっていい。
長屋の“友達”を巻き込んできた身として引けないところもあるのかもしれないけれど、あっちゃんはしっかり自分の気持ちと向き合ったほうがいいんじゃないかと思った。
私が納得できなかったのは「父親」の役割、存在についての部分だ。私も友人に「あなたに父親の役割はできないでしょう?」と言われたことがある。「父親」の役割とはなにか。あっちゃんは4つ挙げていた。
- あっちゃんのパートナー
- ひかりちゃんのお父さん
- 遺伝子お父さん
- 戸籍上のお父さん
そもそも「結婚」や「誰かとふたりで暮らすこと」という型にはまりたくない人が誰かを型にはめるのはどうなのかな。というか、そもそもあっちゃんにとって翔ちゃんはパートナーだったんだろうか?(翔ちゃんはそう思ってなかった、って言ってるわけだけど)
番組を見ていて感じたのは、あっちゃん自身が翔ちゃんと「一緒にいたい」「パートナーでありたい」んだと心の奥底で思ってるということだ。それは情もあるだろうけれど、結局は「好きな人と一緒にいたい」という感情だろう。相手の翔ちゃんを「好きな人」と置くと、なおさら一緒にいたい、一緒に子育てしたい、と話す彼女の気持ちはわかる気がする。それを必死で見ないふりして、結婚やパートナーシップという型から外れた自分を作り出そうとしているようにみえた。でもやってることは、相手を型にはめること、という矛盾。
「結婚」とか「入籍」にこだわっているのはあっちゃんのほうに思えた。結局、保育園の入園式に翔ちゃんを担ぎ出したのも「母親・父親がそろった家族っぽいことしたいから」じゃないんだろうか。
ライターの佐々木ののかさんが自分の表現力のなさを悔いていたけれど(死ぬとか書くのほんとやめるべきだ。本気で新しい家族の在り方を描きたいなら書く力をあげてこれからも勝負してほしい)そこではないと思ったよ。佐々木さんがインタビューしてみてきたあっちゃんは、たぶん翔ちゃんのことを「好き」とは言ってなかったんだろうし、形の話しかしてなかったんじゃないかな。
テレビの人たちのつくりが悪意に満ちているように感じたとしたら、それはそういう隙がみえる発言や行動をしているからじゃないかな。だって、私にはそう見えたもの。子供を盾に、関係を迫るように見えたよ。本人は認めないと思うけど。
ただ、新しい家族の在り方・家族とはなにか、結婚に縛られない子育てや家庭というものに対する考えや取組みは私は指示する。お子さん自身に自分の家族に対しての疑問が芽生える日が来ても、「みんなに愛されて育った」という記憶があれば、そこを乗り越える礎にはなるんじゃないか、と思う。
娘のひかりさんに幸多かれ。