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お題 『おばあちゃんの思い出』

 お題「おばあちゃんの思い出」

 

物心ついたときには、母方の祖母のことは「おかあちゃん」、父方の祖母のことは「おばあちゃん」と呼びわけていた。理由はわからない。

 

母にそう呼ぶようにいわれていたのかと思っていたのだけれど、母に聞くと「気づいたらそうしていた」という。同居していた父方の祖母になんらかの配慮をした結果、子どもの頃の私が決めた呼び名なのだろう。

 

母方の祖母は穏やかでいつも微笑んでいる人だった。女学校も出ていて、読み書きも洋裁も和裁もお料理もなんでもできたけれど、家族の世話をして暮らすことが彼女の大きなミッションだった。結婚後に婚家から呼び戻され、弟や妹の結婚相手を探して住むところを用意し、家や不動産のメンテナンス、地元の神社のお世話や、お寺の檀家総代なんかも努めていた。3ヶ月に1回くらいの頻度で兄弟が集うときはお酒やジュースを酒屋に頼んでケースで買い、煮物や赤飯などを20人分くらい用意して、子どもたち(祖母からみた甥・姪。10人くらいいる)のためにお菓子も用意して、帰るときはお土産まで持たせてくれた。私も鰹節を削るお手伝いをしたけれど、あれだけの人数の食事を準備するだけでも大変だったと思う。

 

遊びに行くと、カートをひきながら買い出しに行くのについていった。なんてことない日常の一コマだけれど、今もその道を思い浮かべられる。魚屋さんに顔をだし(今思うと、あれは私の顔を魚屋さんに見せたかったのだろう)、八百屋で野菜を、スーパーでお菓子を買ってくれた。ときには眠くなった私の手をひいて励ましながら歩いてくれた。その道の途中にクロロフィルの看板をかかげた家があったのも覚えている。

 

祖母には色々なところに連れて行ってもらったが、多摩川園遊園地に祖母と曽祖父と三人で菊人形を見に行ったことがあった。ポカポカと温かい日だったと記憶している。記憶の中の菊人形はとても大きく、菊の花の上に白塗りの顔と髷をゆった頭が乗ってるのはおかしくて「よくこんなもん考えたなぁ」と思っていたけれど、その横で品評会に出ていた鉢植えの菊はどれも立派で、土いじりの好きな曽祖父は一鉢一鉢じっくり見つめていた。

 

途中で私が退屈していることに気づいた祖母が、乗り物にのせてくれた。長いブランコ状の乗り物で、ぐるぐる回るなるやつだ。たぶんブランコに似てるから、と思って乗せてくれたのだろう。しかし乗り物が動き始めて足が地面から遠く離れ、遠心力で身体が外側にふれるようになって怖くて仕方なくなった。このまま落ちたらどうしよう、と思った。鉄の棒一本しか頼れるものはない、ということが怖かった。遊具の向こうで祖母と曽祖父が笑っていた。彼らに私が怖いと思っていることを知らせてはいけない、と思って手をふったり笑ったりした。何周回ったかわからない。乗り物を降りて祖母のもとに戻ったときには、笑顔で「楽しかった」といった。祖母はいつものように穏やかに微笑んでいた。

 

祖母は亡くなる前日も、同じようなおだやかな笑顔で私の訪問を喜んでくれた。小さくなった祖母は長くないだろうな、と思わせるに十分だったけれど、あのおだやかな笑顔は私のあこがれであり続けている。