また、明日。

マイペースにやってます。

桐野夏生 『だから荒野』

早速、新年1冊目を読み終わりました。 

だから荒野 (文春文庫)

だから荒野 (文春文庫)

 

 

あまりこの本に対しての予備知識がなかったので、読み始めてすぐに精神的に削られすぎて途中で放り出すところでした。私は、家族といえども「所詮は他人」であり、それぞれがそれぞれの視点で人生を生きている、と常々思っています。ただ、これに気づくまでは結構な時間がかかりました。実はこの本の前半にかかれていることは自分にも覚えのあることなのです。

 

実家に帰るたびに思うのですが、「言葉が足りない」ことが家族が喧嘩するときの一番の原因だと思います。相手の考えることや感じていることが「わかっている」という前提で生活したり会話している部分が非常に大きい。でも、親だって兄弟だって子どもだって、所詮は「自分じゃない誰か」でしかない。相手が自分の行動や思考・好みをわかってくれなくても怒る必要はないはず。だけど、「どうしてわかってくれないの!」という気持ちが(なぜか)あるからイライラしてしまう。でも、相手だって説明してもらわなくちゃわからないし、言葉や行動で伝えてもらわないと「嫌になる」。職場や友達との間ではできることが何故かできないのが家族、という気がします。それはやはり「遠慮の要らない関係」「親兄弟だからわかってくれるはず」という錯覚が原因ではないでしょうか。でも、家族だって「自分じゃない誰か」でしかないのです。

 

喧嘩になったり、お互いの考えに齟齬が生じた場合、他人にするように相手に対して思いやりをもって伝えられればいいのですが、「遠慮がない」ために感情のまま当たることもままあります。それがある程度許されるのが家族でもありますが、でも誰だって踏みにじられ続けたら消耗して嫌になってしまうでしょう。その疲れ果てた心と関係のはての逃避行、それがこの小説で描かれていきます。

 

きっとどこの家族でも大なり小なり同じようなことがあるでしょう。さらに家族間に序列があるような「錯覚」があると、なおさらでしょう。家族こそ「お互い様」で、よりかかってじゃなくて「支え合って」構成されているのが理想。でも、なぜか「俺が稼いでるんだ」とか「俺は兄貴だ」とかなんらかの理由で力関係に上下がついたりする。さらに親や親戚からの言葉や態度で上下がある気がしてしまう。これこそが「呪い」。小さな「家族」という社会に縛られる呪いです。

 

その呪いを、もっと大きな社会に飛び出していくことで跳ね除け、受け入れ、抗う力をこの主人公はつけていきます。それに引きずられるように、家族のひとりひとりが家族という小さな社会を飛び出し、いままでいた場所に感じていた違和感や不快感を見つめ直します。ある意味でこの本に登場する家族は全員が「世間知らず」ともいえるのではないでしょうか。

 

それにしてもここに描かれる家族の姿は、まさに「明日は我が身」。日々のことに追われて、息子の好きなことや息子が産まれた時の嬉しさを忘れないよう、丁寧に向き合っていかないとなぁ…と思わされました。

 

しかし桐野夏生の本は、こちらが油断してると刺されるな…。 

tamako99.hatenablog.com