私からもひとこといいたい。
昔から「自殺は負け」の意味がわからなかった。死にたいのは「今」の「その人」なんだよ。そもそも人生なんて他人と比べることでもないし、優劣つけることでもないだろうよ。
— たまこ (@tamako99) 2018年10月18日
自殺したら負けとか自殺する奴は弱いとか言うのはもうやめませんか。 - 読書生活 https://t.co/68J45qMteB
私も何度か「死にたい」と思ったことがあります。いじめが原因でそう思っていたとき、家族との関係がうまく行かなかったとき、そしてパワハラにあっていたときです。それぞれ10代、20代、30代で経験していますが、自分で一番危なかったと思うのは20代後半のとき。過労で自律神経失調症と診断された頃でした。
通常業務をこなしつつ、帰宅後に時差のある相手と電話で連日交渉。そして翌日は通常通り出社。ほぼ毎日のように会食もありました。しかしまだまだ仕事が降ってきます。そのうち、関知しなくていいはずの案件にいつのまにか戦力としてカウントされていることがわかり、ここで完全にオーバーヒート。何も考えられなくなりました。
そんなある日、帰宅の電車を待ってるときに「ここで一歩踏み出したらこの状態から抜け出せるのかな」と思い、足を踏み出したところで我に返りました。
結局、退職後にあれがパワハラだったと認識するんですが、当時はパワハラを受けているという自覚はありませんでした。追い込まれて目の前がキューっと狭くなる。選択する余地がなくなる。自分の敵がみえない。私はこんなにやりがいのある仕事をしているのに、なんでこんなにつらいのか、それがわからなかった。理解できなかった。
結局、どうにもならない、体調も悪すぎる、このままでは社会から脱落してしまう、という危機感に加え、フラッと線路に飛び込もうとしたことがきっかけとなり退職を決意しました。でも退職の意思を伝えるのが怖かった。その仕事がすごく好きだったし、社長のことも同僚も、お仕事でつながりのある方々もすごく尊敬していたので、皆さんを失望させてしまうことが本当に怖かった。
しかしそうやって辛い場所と時間から逃れ、紆余曲折あり今こうしてタイで生活しているわけですが、私は生きててよかったと思ってるし、自分の人生を自分でコントロールしていることにとても満足しています。あんなに大変だったのは私が「弱いから」だったとは思わないし、もっとうまい逃げ方はあったかもしれないけれど、そのときはそうすることしかできなかった。必死に目の前のことを頑張っていたら追い詰められてしまっただけ。それを「負け」と言い切ってしまっていいのでしょうか。
【死んだら負け】…僕が高次脳機能障害盛んなりし頃にマジ死のうかと本気で考えたのは、凄く単純に「死んだほうがらくなぐらい辛いから」だった。死んだら負けとか言われた瞬間、そのぐらい苦しい状態を全否定されたことになるって分かって欲しい。残酷とかの言葉じゃ言い表せない
— 鈴木大介 (@Dyskens) 2018年10月17日
あのときに失くしたものやつらかったこと、そして一生懸命だった自分を全否定されたくない。友達、恋人、心と身体の健康、時間、体力、などなど失くしたものは数知れません。でもそのことを否定されたくないし、私もしたくない。あのとき「楽になりたい」と線路に向かった自分の気持ちは誰にもわからない。その後、必死にしがみついて自分の人生を取り戻したことも誰にも否定されたくない。
だから誰かに勝手に勝ち負けにしてほしくないです。