また、明日。

マイペースにやってます。

40にして惑わずってなによ。

40にして惑わず。

 これは「40歳にして、どんな問題が起きても迷うことがなくなった」というありがたい孔子の言葉だが、現実には惑うし、悩むし、決めきれないし、40歳なんて30代からの延長でしかなく、今までと同じように日々が淡々と過ぎていく、というのが大半の人が直面している40歳だと思う。

 

まだ人生の折り返し地点にいて、あと40年くらい残っているのに、すでにこの道の先を直視しずらい。「まだ自分は右肩上がりの時間にいる」と安心したい。だからみんな「40にもなったら惑わずに生きるのが理想だけどね~、無理だよね~」くらいの感じでいるんじゃないかと思う。この心持ちのどこが「不惑」なのか、できることなら孔子の胸ぐらをつかんで問いただしたい。

 

私は40くらいまでしか生きるつもりがなかったので、むしろ30歳を迎えるときのほうが「いやいや、まだそっちにいけないよ!」という気持ちが強かった。27歳くらいまでは「20代の無責任さ」みたいなものを謳歌していられたのだが、28歳になったときに「どうしよう、あと2年しかない」と焦り始めた。29歳になったときは「ああ、もうちょっと待って!」とあがき、そして30歳になった。

 

だけど30歳になってみると思ったよりも楽で、心は開放感にあふれた。年齢なんてただの数字とは思うものの、周囲からかけられる言葉の数々は「20代」と「30代」の差異を嫌でも思い知らされた。気にしないと思っても、20代女性にかけられる期待は大きい。その期待に応えられる自信がないと思い続けていたので、30歳になったときに「周囲からのあの期待は何だったのだろうか」と思った。なので、40歳になるときには「ここまできたか~。あとは余生よ~」「オマケ時間だから、リラックスリラックス~」と割り切った気持ちでいられた。今もそれは根っこに(意識的に)持っている。

 

人生80年というけれど、伸びているのは「若い時間」ではなく「老人の時間」だ。老いていく自らをみつめながら生きるのはしんどい。目も見えなくなってくるし、白髪は増えるし、体だって今までのように動かなくなっている。体の線も崩れていくし、あちこちガタが来て病院を探さなきゃいけなくなったり、家族との関係性が変わったり、或いは家族の人数が(減る方向に)変わったりもする。自分自身の変化だけでなく周囲の変化も著しく、それがどちらかというと引き算の方向と感じるがゆえにちょっと気持ちも落ち込んだりしがちだ。

 

だが、健康であればたぶん(生殖以外のことは)叶えることはできる。意外なほどに「20代女性に求められる期待」よりもこの先に待ち構えるであろう不透明な40年間のほうが、他人からの値付けのプレッシャーも下がり、それをさほど気にする必要もない、はず。たぶん。20代の頃とは同じというわけにいかないだろうけど、もっと賢く、小賢しく、狡く立ち回って楽しむことはできるはず。

 

そんなわけで、また一つ歳をとりました。