沢渡あまね 『仕事の問題地図』
普段はビジネス書を手にとることなどないのですが、棚の前に何の気なしに立ったときに目についたので手にとってみたところ、私が今抱えているモヤモヤが言語化されている!ととてもうれしくなり、一心不乱に読みふけってしまいました。
仕事の問題地図 ?「で,どこから変える?」進捗しない,ムリ・ムダだらけの働き方
- 作者: 沢渡あまね
- 出版社/メーカー: 技術評論社
- 発売日: 2017/03/08
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
たとえば、チームの一体感ってどうやって作っていけばいいんだろう、どうしたら会社に愛着を持ってくれるんだろうか、というのは海外にある日系企業が悩む課題だと思うんですけど、たぶんそれ、ここに書いてることを読めばものすごくシンプルに解決できると思う。
日本人(上層部)だけで話をこねていて、現場に下したとたんに「え!どうしてできないの!?」もしくは「え!そんな簡単に解決できるの!?」なんてのもよくある話。こういうことが起きる理由もチャートできちんと説明されていて、しっかりと考え方・問題点をあぶりだしてくれます。
あとねぇ、私自身が今ぶちあたっているのが「モチベーション低下」なんですけど、これもちゃんと理由がきちんと論理的に説明できるんですよ、この本を読むと。そのことが結構びっくりでした。私が抱えているこのモヤモヤは誰にも分ってもらえない感情的な問題だと思っていたから。
それと、私が「これはきっと使える!」と思ってきた考え方やマネジメント方法なんかも書かれていたので、ある意味自分の会社に対する考え方に自信も持てました。なので、改めて提案していきたい、と思ったり。
こういうやりたい!やれる!提案してみたい!というワクワク感って大事ですよね。
まじめな話、上司にこれプレゼントしようか悩んでるところ…。
マイケル・ブース 『英国一家、インドで危機一髪』
ようやく読み終えました。
一家でインドに長期滞在した英国一家のあれやこれやのお話。
著者のマイケル・ブースは『英国一家、日本を食べる』というエッセイを書いていて、私はそれをインド旅行中に読んだのですが、これがひっじょーーーーーーに面白かった。なので、今回はインド旅行記だ!と非常に楽しみに読み始めたわけですが、
つらい。つらすぎる。
なんと、マイケルが中年の危機、家族の危機、アルコール依存症の危機で完全に抑うつ状態。美味しいものを味わってる文章もキレがない。多分、もう美味しいものすら「味わって」ない。お料理に関することを書いてきた人ですし、コルドンブルーで修行もした人だから確かに描写はできる。でも、そこにエキサイトしている様子が感じられない。
日本で日本料理(B級料理から料亭の味まで)を楽しんでいたときは、見るもの口にするもの出会うものすべてに興奮し、お料理をじっくりと吟味していた描写が本当に面白かった。あの文章を書いた人と同じ人物とは思えない平坦な文章は、ちっとも食べ物が美味しそうでもなく、記憶に残らないものでした。
そしてそのどんよりぶりに焦る私の気持ちとシンクロするように、マイケルの妻リスンは彼との関係修復のためにぐいぐいと旅程を変更し、なんとマイソールでのヨガ合宿を敢行します。ここ、マイケルの側から読んでいると「流されている」感じなのですが、リスンの気持ちを思うとこれはものすごい緊急事態だったのでしょう。なんせパートナーと相談して何かを決められない、というのは致命的。それこそ危機。
で、後半はマイソールでのヨガと瞑想の日々について書かれているんですが、なんともいえない説得力に満ちていて、少し前に「40代は瞑想しろ」と書いて話題になったブログとシンクロします。そして体をコントロールできることによる身体への自信と、瞑想による平穏な内面を得た後に旅は終わります。
実は、息子が不在だった夏休み期間中、私もヨガと瞑想の合宿に参加してきました。それと、「私は何者でもない」「やりたいことがないことがつらい」と愚痴って、友達に「世の中の大半の人は何者にもなれないのよ」と檄を飛ばされたりしていました。パートナーもいないのでそんな不安を分かち合う人もいなくて、ひとりメソメソして、ヨガして、瞑想して、なんとなく平静を保っていました。
多分40代にヨガと瞑想は間違ってない(断言)
今はこの本にかかれていたマイソールのヨギのところに行きたくなっています。
久しぶりにインド旅行でも計画しちゃおうかなー。
話題になったブログ 。長いけど一読の価値あるかと思います。
井伏鱒二 『駅前旅館』
井伏鱒二といえば、『山椒魚』もしくは『黒い雨』。受験勉強の折にも、中学校だか高校の授業だかでも取り上げられる昭和の文豪です。
これまで何度か井伏作品に触れてきたにも関わらず、私は全く興味を持てませんでした。その理由は様々ですが、一言で言うとどうもピンとこなかった。
ところが、井伏鱒二という人は太宰治が生前非常に仲良く付き合っていた、と聞いてがぜん興味がわいてきました。私は川端康成のことを悪くいう太宰のことも、彼が書いた芥川賞クレクレ手紙のことも、身勝手な心中という最期も、私小説のような作品もこれっぽっちも好きではないのですが(好きな人にはごめんなさい)、そんな太宰が私生活において頼りにし、遺書にまで名前を書いたのが井伏鱒二だった、と聞いたら、これはもうただ者じゃなだろう、と。あれだけ自堕落で放埓な太宰(私の中ではこういうイメージなんです)と長く、そして密に付き合ったという人からは、それまで教えられてきた「井伏鱒二=反戦作家」というイメージは吹っ飛び、ひとりの面白そうなおじさん、に変わりました。
早速、いくつかの作品について調べ、その中でも『集金旅行』とこちらの作品のどちらにしようか悩みましたが、まずは下世話過ぎないこちらにしようと思ったんです。なんとなく、軽妙な感じがしたので。
で、読了した感想として身もふたもないことを言いますが、
なにもかもがだらしない。。。
当時の「駅前旅館の番頭さん」の社会的立場を私はよく知りません。昔の旅館というのは流れ者やワケアリのスタッフが多く、あまり社会的によい位置づけではないことは、他の作家の作品を読んでいてもわかります。そして、団体旅行のお世話係といえば薬屋や米問屋の番頭とは求められる質が異なるのはわかります。しかしその旅館の番頭という職業の社会的立場を「立派とは言えない」ものにしているのは主人公その人じゃないでしょうか。長年番頭として勤めていてこのありさまなのか。果たしてプロの番頭とはなんなのか。子供のころから女中部屋で寝起きして、旅館の仕事を肌で知っていて、「江ノ島の呼び込み」という番頭として最も過酷な修行をしておいてこれか。。。おいおい、しっかりしろよ…と思わず声が出る始末。
女にだらしないと口ではいいながら、自分に好意を寄せてくれている女性にははっきりした態度をとらず、何があってものらりくらり。さすがにだらしないにもほどがある。手に手を取って駆け落ちしろとはいわないが、於菊にはしっかりと年長者らしい一言でもかけてやれよ…。辰巳屋の女将にも中途半端に気を持たせるようなことするなよ…。イライライライラッ
でも、意外と男性ってこんな感じなのかもしれない。どこかで「自分なんて」と思ったまま大人になり、年を重ねた男性ってこういう感じなのかもしれない。新しい時代がやってきて、その時流に乗り切れず、大型旅館の番頭という仕事「しか」できない身の上は、ある種の劣等感を植え付けられるものなのでしょう。緩いつながりとコネクション、心付けが次の仕事へとつながる前時代的価値観。
聞き書きという体裁がそのゆるさ、落ち着きの無さをまた増幅していて、「だらしない」印象を固定していくのですが、悪い人じゃないんだよね…。それはわかるんだけども、時代が違うといえばそれまでなんだけども…。男性は好きなんですかね、こういうお話。
もう少し井伏鱒二という作家とその作品について、深く知りたくなったのは間違いありません。今度は『集金旅行』を読んでみようと思っています。
米澤穂信 『満願』
新年2冊目読了。
昨年夏に本屋さんでよく見かけた本です。
本屋さんのポップにこのミスだとか文春のミステリーベストに選ばれたとか書いてあったので、思わず買ってしまいました。しかしそのまま積読に。 ようやく読むことができてよかった、よかった。
こちらの本は6本の短編からなっています。各お話のタイトルやあらすじなど、そのあたりのことはアマゾンの内容紹介なり、ブクログなり、Wikipediaを読めばわかるので省きます。
この方の作品は初めて読みましたが、女性がいいですね。いい味をもった女性がたくさんでてきます。そしてどの女性も一人でしっかり立っている。清々しいほどにみんな一人で立っている。ただ、その奥にはやはり様々な「決意」があって、誰にもそれを見せずに踏ん張っている部分もある。そこが「恐ろしい」と思われてしまうものだったりする、のがこの本に出てくる女性たちだと思います。
正直、作品ごとに「あ、あのひとの○○に似てる」と思う部分もあったりするのですが、個人的には『死人宿』『関守』『満願』が好きです。
『満願』は奥ゆかしい女性に似合った奥ゆかしい文章でした。あと、母方の実家の建物と縁側と庭、床の間にいつも飾ってあった掛け軸を思い出しました。それから、地元からさほど遠くない場所のだるま市のことも。そういう小さな思い出をそっとなぞるような文章が、とても優しくて気に入りました。
通学路にあるお社に、誰かがこの市で買っただるまを置いていた。
桐野夏生 『だから荒野』
早速、新年1冊目を読み終わりました。
あまりこの本に対しての予備知識がなかったので、読み始めてすぐに精神的に削られすぎて途中で放り出すところでした。私は、家族といえども「所詮は他人」であり、それぞれがそれぞれの視点で人生を生きている、と常々思っています。ただ、これに気づくまでは結構な時間がかかりました。実はこの本の前半にかかれていることは自分にも覚えのあることなのです。
実家に帰るたびに思うのですが、「言葉が足りない」ことが家族が喧嘩するときの一番の原因だと思います。相手の考えることや感じていることが「わかっている」という前提で生活したり会話している部分が非常に大きい。でも、親だって兄弟だって子どもだって、所詮は「自分じゃない誰か」でしかない。相手が自分の行動や思考・好みをわかってくれなくても怒る必要はないはず。だけど、「どうしてわかってくれないの!」という気持ちが(なぜか)あるからイライラしてしまう。でも、相手だって説明してもらわなくちゃわからないし、言葉や行動で伝えてもらわないと「嫌になる」。職場や友達との間ではできることが何故かできないのが家族、という気がします。それはやはり「遠慮の要らない関係」「親兄弟だからわかってくれるはず」という錯覚が原因ではないでしょうか。でも、家族だって「自分じゃない誰か」でしかないのです。
喧嘩になったり、お互いの考えに齟齬が生じた場合、他人にするように相手に対して思いやりをもって伝えられればいいのですが、「遠慮がない」ために感情のまま当たることもままあります。それがある程度許されるのが家族でもありますが、でも誰だって踏みにじられ続けたら消耗して嫌になってしまうでしょう。その疲れ果てた心と関係のはての逃避行、それがこの小説で描かれていきます。
きっとどこの家族でも大なり小なり同じようなことがあるでしょう。さらに家族間に序列があるような「錯覚」があると、なおさらでしょう。家族こそ「お互い様」で、よりかかってじゃなくて「支え合って」構成されているのが理想。でも、なぜか「俺が稼いでるんだ」とか「俺は兄貴だ」とかなんらかの理由で力関係に上下がついたりする。さらに親や親戚からの言葉や態度で上下がある気がしてしまう。これこそが「呪い」。小さな「家族」という社会に縛られる呪いです。
その呪いを、もっと大きな社会に飛び出していくことで跳ね除け、受け入れ、抗う力をこの主人公はつけていきます。それに引きずられるように、家族のひとりひとりが家族という小さな社会を飛び出し、いままでいた場所に感じていた違和感や不快感を見つめ直します。ある意味でこの本に登場する家族は全員が「世間知らず」ともいえるのではないでしょうか。
それにしてもここに描かれる家族の姿は、まさに「明日は我が身」。日々のことに追われて、息子の好きなことや息子が産まれた時の嬉しさを忘れないよう、丁寧に向き合っていかないとなぁ…と思わされました。
しかし桐野夏生の本は、こちらが油断してると刺されるな…。
桐野夏生 『デンジャラス』
大好きな作家、谷崎潤一郎の晩年の結婚生活とそれを取り巻く人々を題材にした作品です。